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あひるのバタ足

日本語教師だったり、TOEICスコアアップトレーナーだったり。非常勤生活満喫中。「われわれは過去の記憶によってではなく、未来への責任によって賢くなる」(バーナード・ショー)

外国語ができなくても日本語教師になれるって、ホント?

「あんなに言ったのに全然覚えてない!」講師室に戻ってくるなりキレてる先生がいました。相当がっくりきてる様子です。前回導入した表現とその注意点について、復習をしたらほとんどの学習者が覚えていなかったのだそうです。

でも、ちょっとまって。教師が教えたら学習者は覚えるものなのでしょうか。私たちは自分が中学や高校で英語を勉強したとき、単語も例文も発音も、一回で覚えられたのでしょうか。

肩を落としている先生の後ろ姿にかける言葉も見つからず、しかし以前「あひる先生って海外一人旅できるの?英語使って?すごーい」と言われたことがあるのを思い出しました。この先生は、どうやら自分の意思で外国語を学んだことがないようです。

というわけで今回も投下してみました。どーん。

(あれよあれよと言う間に、日本語教師以外の方々にもRTが広がっていてちょっと怖い気がしています)

 

日本語教師 外国語 できない」と検索すると「直接法を使って教えるから外国語ができなくても大丈夫」という記述がたくさん出てきます。実際のところはどうなのでしょうか。 

投下後、真っ先に届いたのがこちら。豪速球の直球です。

学生は教師をどう見ている?

関さんは、学習者の母語を学ぶようになって授業に対する考え方が変わったそうです。

 

もう少し深めてみたいと思います。日本語教師が外国語を学ぶということは、どういうことなのでしょうか。り〜やんさんは、ヒンディー語に挑戦してみたそうです。

こちらは、繰り返し練習の重要性です。自分がその気にならないと毎週90個とか覚えられないですよね。

日本語教師が外国語を学ぶということは、媒介語を使う使わない以前に、学習者を理解するために非常に重要な要素であるようです。

それではなぜ、外国語ができない人が日本語教師になっているのでしょうか。

営業トークでしたか。実際は外国語ができる人も養成講座を受講されているようですが、修了後、そうした人が日本語教師になっていないというのが何とも できる人は「他にも稼げる仕事があるから、非正規で給料も安い日本語教師にならなくてもいいや」ということなんでしょうかね。

ちなみに今回の私の問題提起は、こちらのツイートに触発されてのものです。

 

以上、外国語学習経験の重要性について書きました。しかしもちろん、外国語を学ぶ大変さとそれを克服する手立てがわかるのであれば、経験はなくてもいいと言えるかもしれません。ただ、私たちは神様でもコンピューターでもなく、人間という自己中心的かつ非生産的な生き物ですから、相当のメタ認知能力がないとそれは難しいのではないかと思います。

また、もう一つ批判が想定されます。経験至上主義に陥ると「私がやったこの方法が最高。黙って従え」と学習者の多様性を無視して自分のやり方を押し付けることにもなりかねないというものです。ただ日本語教育能力検定試験に合格している方であれば、こうした経験至上主義がナンセンスであることはご理解いただけると思います。

今回はCEFR B1以上を目安に外国語を習得しているかどうかをTwitter上で日本語教師の皆さんに問いかけたところ、たくさんのリアクションをいただきました。ひとつだけでなく、2つめ3つめの外国語をA1A2レベルで学習中という方もいらっしゃいました。すでにある言語がある程度使えるレベルに達した後も、新たな言語にチャレンジし、現在進行形で学び続けている方々には本当に頭が下がります。

問いかけにリアクションをくださった皆様、引用を許可くださった皆様(実はまだ一部返信待ちですが)、本当にありがとうございました。

【追記】

本エントリ公開後、村上さんからコメントがありました。

 学習者がどんな方法で勉強できるのか、その現状と可能性を知っているのと知らないのとでは指導法や教師としての信頼に大きな差が出ると私も思います。私は英語はB2とC1の間くらいですが、最近スタディサプリEnglishを有料で使用し、全レベルに入り込んでいじりまくっています。とにかくどんなもんか見てみようという感じですが、英語・日本語どちらを教えるにしても得るところが多いです。スキットは言われているほど面白くはないですが、続けさせるための仕組みがハンパないです。ぜひのぞいてみて「一週間お試し」してみてください。なお私自身の信頼に関わるので下記リンクはアフィリエイトにはしていません。

eigosapuri.jp

初級ばかり担当してると日本語が退化する?

初級が好きすぎて、自分は変態なんじゃないかと思う今日この頃です。今期も担当3クラスすべて初級です。

しかし悲しいことに、先生たちが「初級ばかり担当していると自分の日本語が退化する」と言っているのを聞いたことがあります。「えっ、そんなの都市伝説でしょ?」初級フェチの私は驚きました。文型シラバスの不自然な例文や、学習者の産出する非文を読んだり聞いたりしているうちに、ネイティブである自分の日本語が上書きされてしまうのでしょうか。ありえない!失礼ながら「本当にそれで退化するなら、その人もともと日本語大丈夫だったの?」と思っていましたし、言ったりしてました。ほんと失礼ですよね。

というわけでTwitterでアンケートを実施してみました。実際初級ばかりを担当していて自分の日本語が退化することはあるのでしょうか。そしてどれくらいの人がそう感じているのでしょうか。さらに、自分の日本語が退化するという感覚は何を意味するのでしょうか。

 

ご協力いただいた皆様、ありがとうございます。

「退化する」と思っている方が20%いるということがわかりました。これは、どういうことでしょうか。

まず、海外で日本語に触れる機会が少ないと努力が必要になるという考えです。

日本国内だとどうでしょうか。残念ながら国内の日本語教師の方からのコメントは得られませんでした。

次に、退化するわけではないが、頑張りすぎてティーチャートークが身についてしまうという意見です。

日本語教師になって2~3年は退化した感じがした」という方もいたので、これはありそうです。

一方で、「退化しない」という意見です。日本語を母語としない人に向けた日本語は、日本語を母語とする人に向けた日本語の何倍も難しく、言葉を知っている必要がある、と。これは初級の醍醐味でもありますね。

こちらは養成講座の先生もなさっていた方の意見。初級は自分の日本語を研ぎ澄ますチャンスだというアドバイスです。

これはインパクト大でした。「退化する」の再定義、「破壊と創造」ですね。

退化する・しないどちらの意見も突き詰めていくと「初級を担当することが自分の日本語を振り返る機会になる」ということなのだと思いました。アンケートにご協力いただいた皆様、ツイートの引用を快諾くださった皆様、本当にありがとうございます。

いやはや、自分の経験からしか学べないって恐ろしいですね。この件に関して今まで暴言を吐いてきた私を許してください。本当にすみませんでした。

これからもよろしくお願いします。

初級でも議論。シンギュラリティについて

学習者と接する際、常に意識していることの一つに「学習者は大人である」ということがあります。教師より年少である、日本語がたどたどしい、ともすれば我が子と同じくらいの年頃だからと、20才前後のいい大人を子ども扱いする教師は珍しくありません。2013年言語文化教育研究会でのつながろうねっト「あの子」問題から「教師学習者」の関係について考えるをご存知の方も多いと思います。

自分の授業は果たして大人を引きつけるものになっているだろうか?子ども扱いはしていないにしろ、留学生の関心事は生活やアルバイトだけと決めつけていないだろうか?そんな疑問から、ちょっと冒険をしてみました。

  • 使用教科書・単元『大地2』32課 使いましょう2
  • 所要時間1.5コマ
  • 学習者の出身国と人数:ベトナムスリランカ、モンゴル 16
  • テーマ:未来の仕事はどうなると思いますか?(教科書では「未来の学校」ですが、変えました)
  • 目標:未来について考えたことを「(普通形)かもしれません」を使って会話できる。

いま、未来と言えば「シンギュラリティ」ではないでしょうか。AIつまり人工知能が人間の能力を超え、人類がAIと融合する日です。GoogleAIプロジェクトを指揮するレイ・カーツワイル氏が今年20173月にSXSWで語ったところによると、これまで2045年と考えられていたこの日が、2029年に早まるということで話題になりました。

まず、ツカミです。英語で書かれたこの記事の見出しをモニタに写し、英語がわかる学習者に日本語で意味を説明させます。Ray Kurzweilが人の名前であることは説明します。またpredictに相当する日本語「予測する」など知りませんから、つまったら「未来のことを考えたんだね」等助けを出してもいいでしょう。実際しました。知っている範囲で言えばいいんだと学習者が再認識する機会にもなります。

www.foxnews.com

早くもこの段階で反応する学習者がいました。一人の学習者が「先生、これと同じですね」と自分のスマホ1分程度の動画を見つけてきたので、彼を前に呼んでスマホをモニタと接続して全員で動画を見ました。彼が出してきた動画には、AIの明るい未来だけでなく、戦争で無人攻撃に使われるというネガティブな情報も入っていました。

www.express.co.uk

ここで、グループでの話し合いを開始します。黒板の左側には今2017年に存在する仕事、たとえば運転手、学校の先生、店員、駅員などを書き、右側には2029年と書いて空欄にしておきます。教科書の例は100年後ですが、そんな未来はだれも生きてないと学習者たちも鼻で笑います。しかし2029年なら自分は

休み時間も忘れて話し続けるグループもありました。

発表は、学習者が口頭で話したことをその場で教師がPCに打ち込み、リアルタイムでモニタで共有しました。

実際のドキュメントです。よほど決定的な非文でない限り、学習者が産出したことばは生かしました。

docs.google.com

 

今起きていること、自分が知っていること、興味のあること、それらが結びついたとき、学習はとても楽しいものになり、学習内容は有機的に定着していくのではないでしょうか。これからも学習者とともに、旅を続けたいと思っています。

授業でスマホ、どう使う?

前回は、『ネット・バカ インターネットが私たちの脳にしていること』を引き合いに、新しいメディアの出現に伴って私たちの脳も変化していくことと、それが不可逆的な変化であることを述べました。そして、私が授業中にGoogle辞書の使用を制限している理由についても書きました。

 

今回は、授業中にスマホを使用させる場面についてです。

どんな場面が考えられるでしょうか。また、どんな制限が必要でしょうか。

読み進める前に、少し考えてみてください。

 

私が実際にしている使い方は以下の通りです。

  • 辞書:教科書にはないけれど知っていてほしい基本的な語彙を導入したい場合、日本語母語 で使わせることがあります。一方、母語日本語で使わせると微妙にズレた結果が出てややこしくなるので、悩ましいところです。(「妻」と推測されるところで「うちのやつ」と作文に書いてくるなど)
  • 写真:休みの日に何をしたかなどを話す活動のとき、スマホで写真や動画を見せあいながら話します。ただ制限を設けないと写真をダラダラとスクロールして見せるだけでほとんど言葉を使わずに終わってしまうので、見せる写真は1枚と制限することが多いです。この使い方は、私がこの学校に来たときすでに行われていました。
  • アンケート:つい一昨日の話ですが、Googleフォームでアンケートを作り、学生たちに各自のスマホから投票させるというのをやってみました。グラフが自動で生成されるので、モニタを示しながら「夜12時前に寝る人は◯%です」といった発表をしました。ただQRコードリーダーはおろかLINEすらまだ入れていない4月生クラスだったのでインストールから始める人もいたり、おもしろいからと一人で何回も投票する人が出たりするというハプニングもありました。
  • 調べる:初級レベルではあるテーマについて日本語で検索をかけても出てきた結果が難しすぎてわからないということが多々ありますが、母語や英語で調べて日本語で説明するという活動なら無理なく使えます。
  • 録音:希望者には自宅学習用として教師による音読を録音させています。スピーチコンテストの前は列ができました。
  • ノート:極端な考えかもしれませんが、板書を手書きでノートに写す間、耳がお留守になる、時間がかかるという理由で、私の授業では板書の撮影は推奨しています。しかし、ただ撮っただけでは覚えないので、ちゃんと見て復習に使うようしつこく言っています。

さて、禁止しても禁止しても、学習以外の用途で使ってしまう、つまりSNSやゲームにハマってしまって授業が上の空になってしまう人がいます。そんなときは、授業を中断してでもソシャゲやGoogleFacebookのビジネスモデルを考えさせます。いま自分がプレイしたゲームの情報は、何気なく検索した情報は、いいねした情報は、運営会社にどのように使われるのか? それで自分はどんな恩恵を受け、何を失うのか? みんなで考えます。これだけで中毒から脱することができるとは思いませんが、考えるきっかけになればと思っています。

 

次回は、初級クラスでシンギュラリティ(技術的特異点/Technological Singularity)について話し合った結果について書こうと思います。

授業中のスマホ、禁止?それとも許可?

読み進める前に、まず心の中で考えてみてください。

  1. 授業中のスマホ、禁止しますか?それとも許可しますか?
  2. 理由は? 

最近、こんな本を読みました。5年ほど前に書かれた本ですが、2017年の今も色あせるどころか、ますますエッジが立ってきているように思えます。

 
 

私たちの脳は新しいメディアの出現とともに変化しているそうです。

 

新しいメディアが出て来るたびに言われてきました。

ゲームをするとバカになる。

テレビを見るとバカになる。

もっとさかのぼると、本を読むとバカになると言われた時代もあったそうです。

 

我々一般人がネットを使うようになって、20年くらい。

どんな実感がありますか?

 

私の場合ですが PC → ガラケースマホ とデバイスが変わっていくにつれ、以下のような「症状」が加速してきたように感じます。 

  • わからないということが不安で、つい検索してしまう。
  • ネットで見たり読んだりしたものはすぐ忘れてしまう一方で、知っているつもりになる。
  • まとまった文章を読んだり書いたりすることがつらくなった。
  • 何もしていないことが不安に感じられて、ついスマホSNSを開いてしまう。その割に目は表層を滑っているだけ。
  • それがエスカレートして、何かをしているときでもスマホがそばにないと不安になる。
  • 電話番号や郵便番号、住所が覚えられなくなった。(短期記憶のチャンク数は7と言われているが、個人的には4ぐらいに減少しているというのが実感)

完全に中毒ですね。

「記憶の外部化」という概念があります。よく言えば、検索すればすぐ出てくるような情報は覚えなくてもいいということです。私はこれを「脳や身体が拡張している」と捉え、ついこの間まで、本気でカッコいいと思っていました。

しかし外部記憶に頼り続けることで、私の脳は意図せずその状況に順応してサボることを覚えてしまいました。そしてそれに伴い、今までできていたことができなくなっていったのです。

一方で、ネットがあったから、また、ここまでネットにつながっていたから実現できた、いいこともあります。

  • オンライン英会話やeラーニング教材、TEDなどネット上のコンテンツを使って独学し、13ヶ月でTOEICのスコアを600点台から900点台に伸ばすことができた。
  • CouchsurfingやAirbnbを知り、民泊なんて言葉がなかったころから外国人を家に泊めてレアな体験ができてお金も稼げた。
  • その体験を元に、世間が民泊に興味を持ち始めた頃ウェブセミナーを開いたりKindle本を出版したりして、そこでいろいろな人と知り合い、お金も稼げた。憧れのジャーナリストがうちまでインタビューしに来てくれた。
  • SNSでコアな先生方と知り合うことができた。またそれが現在の仕事にもつながっている。
  • 地雷も踏んだりしたが、片っ端からあれこれ試してきたので、初めて見るツールやサービスでもなんとなく使えるセンスが身についた。
  • 「廃人」と言われてもいいレベルで動物動画を見まくっているので、文型導入に使えるドンピシャ動画を必要に応じて発掘できる。(連体修飾のところで使用した「日本語を話す鳥」)

    www.youtube.com

いい面もあればそうでない面もあり、いいところだけ取るとか、足して割るということはできない、ということはご理解いただけたでしょうか。

 

さて次は、ネット中毒者であり、同時にネットから多くの恩恵を受けてきた教師(私)がいま教室の学習者たちにどう向き合っているかという話です。

現在の私の勤務校では、授業中スマホはかばんにしまうというルールになっています。ただし教師の裁量で必要に応じて授業中に使わせることはできます。

学習者は圧倒的にGoogle辞書を使おうとします。わからない語に出会うたび、スマホに手が伸びます。これはやめさせます。「ゲームやSNSで遊んでるんじゃなくて辞書なのになんで?」最初は学習者も納得しません。

なぜ辞書を引くのをやめさせる必要があるのでしょうか。

理由は三つあります。

  • 一つは、耳がお留守になるからです。教師が語彙や文型を制限したティーチャートークで話しているとはいえ、意識がスマホに行っている間、同時に聞けるほどの日本語能力は彼らにはまだありません。それができるなら、いちいち辞書と首っ引きになんてなっていないでしょう。
  • 二つめは産出についてですが、既習語彙を繰り返し使用して定着させることに注力してもらいたいからです。既習語彙をすべてマスターしてしまったのであれば似た言葉を探してもいいかもしれませんが、そんなレベルの学習者には教室ではまずお目にかかりません。
  • 三つめは、せっかく調べても調べっぱなしにして覚えないからです。私が記憶の外部化という概念に心酔しているうちに脳がサボることを覚えてしまったのと同じパターンです。

(家でGoogle辞書を使うことについてまでは介入していません)

 

それでは、わからない語に出会ったとき、言いたいことが日本語で見つからないとき、学習者はどのように対処すればいいのでしょうか。

わからない語は文脈から推測です。言いたいことは今自分の中にある記憶をありったけの力で絞り出して産出するのです。仲間に聞くのはOKです。「外部記憶」の反対、「内部記憶」の活性化です。どんな斬新な表現が出てきても、非文でない限り、自分と仲間の「内部記憶」を呼び覚まして産出したことに拍手を送ります。(昨日は「たばこはよくないと思います。たばこを吸う人は病院の友達ですから」という文が出てきて驚かされました)

 

メディアの変化に伴う私たちの脳の変化は、不可逆的なのだそうです。一度スマホを使い始めてしまったら、もうスマホを使っていなかった頃の脳には戻れないのです。

 

 最後に、もう一度質問です。

  1. 授業中のスマホ、禁止しますか?それとも許可しますか?
  2. 理由は?
  3. 許可するとしたら、どんなルールで運用しますか?

 

つづく。

日本語教育とコーポレート・ガバナンス

10年と少し大手通信会社で会社員をやってきた私にとって、日本語教育の世界におけるコーポレート・ガバナンスは非常に脆いものに感じられます。

たとえば私が非常勤として勤務してきた日本語学校では、常勤・非常勤の連携が求められ人の入れ替わりも頻繁なのに、情報セキュリティに関するポリシーもなければ明確な運用ルールもありませんでした。教師から学生へのセクハラも告発したところでスルーがお約束の学校、勤務時間中にSNSで遊んでいる専任教師を注意できない学校もありました。おそらく組織の規模が小さいから、個人商店の延長的な発想で回していけてるんでしょう。

しかし先日、そんな牧歌的な状況を覆すイシューが発生しました。

togetter.com

かいつまんで説明しますと、都内の日本語学校の管理職の方が、特定の国の人について客観的な根拠に乏しい評価をSNS上で発言されたのです。特定の国の人たちをまるっとステレオタイプで評価する。これはあってはならないことです。ましてや日本語を母語としない人々と日々接する仕事をしている私たちであれば、なおさらです。

そしてもう一つ。学校を代表する立場の管理職であることを自ら公言している立場の方が、こうした発言をするということについて。この点についてはどなたも指摘されていないようでしたが、私はこれも見逃すことができない問題だと考えています。あからさまなレイシズム発言をし、指摘を受けても謝罪も撤回もしない方を管理職に置いている学校は、外からどう思われるのでしょうか。

私たちは、数々の企業、組織の不祥事をメディアを通じて見てきています。学びましょう。情報はSNSを通じてあっという間に広がります。そういう時代です。

先日の「語学教育とソーシャルメディア」では学習者にSNSをどう使わせるか?というテーマが取り上げられましたが、私たち教師もSNSをどう使っていくのかを考えていかなくてはなりません。

togetter.com

組織だけの問題ではありません。フリーランス、非常勤も、一人ひとりが「会社」です。

一度、コーポレート・ガバナンスについて、考えてみましょう。

 

なお件の日本語学校管理職の方については学校名、氏名が他者によって公開されており、それに対して「個人情報を晒すのはよくない」という声が上がっています。しかしながら、ご本人の意思で顔写真をアイコンにしており、その上で学校を代表する立場であると公言していますので、その方のお名前が学校名と紐付いたところで、それは個人情報とは言えないのではと思っています。

 

Twitter実況のススメ

講演やシンポジウムなどでノートを取っている方、次回からTwitter実況をしてみませんか?


・メリット
1.勝手な使命感で気分がよくなり、集中して聞ける。
2.普通にpcでメモとるのと手間が大して変わらない。
3.誰かがまとめてくれることがある。
4.色々な人からフィードバックや補足がもらえるので理解が深まる。

・デメリット
聞いたものをひたすら書く作業が優先されるので、考える余裕がない。

・必要なもの
1使い慣れたPC
2インターネット接続(デザリングできるスマホやモバイルルータがあればなお可)

・おまけ
日本語教育みたいなデジタルデバイドの谷が深い世界では見てくれる人は少ないですが、逆にある意味ヒーローになれます。でも普段のツイートに戻った途端フォロワー数が減ります。

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